【野球】ドラ1候補なのに指名拒否。杉浦正則と 志村亮が会社員の道を選んだ理由 [征夷大将軍★](*´д`)wwwww

1: 征夷大将軍 ★ 2020/10/26(月) 06:33:13.78 CAP_USER9.net
ひとりは、慶應義塾大学野球部で通算31勝をマークした志村亮だ。

 桐蔭学園(神奈川)で2度甲子園を経験し、大学進学後は1年時から勝利を積み重ねていく。5試合連続完封、53イニング連続無失点といった輝かしい記録を達成するなど、複数球団が獲得を狙う選手になった。

 しかし1988年秋のリーグ戦を締めくくる慶早戦で投球を終えたあと、当時4年生の志村は試合後のキャッチボールをしなかった。「もうこの左腕を使うことはない」と決めていたからだ。

 プロ野球のチームからの誘いは、4年生の春の時点で断っている。そして志村は、野球部がない三井不動産への就職を選んだ。

『通用するかしないかわからないけど、自分の力を試したい』と言って入る世界ではないと思っていました。プロ野球は本当に厳しい世界で、体を壊したり、実力が足りないと判断されたりするとすぐに戦力外通告を受けますから。それでもいいから、一生を捧げるつもりで入るかと考えたら、そうではなかった」

 ユニフォームを脱いだドラフト1位候補は、スーツ姿で通勤電車に揺られるサラリーマンになった。

「いろいろな業種の中から三井不動産という会社を選んだのは、不動産の仕事と、三井不動産が好きだったから。それならば頑張れるはずだし結果も出せるはずだと、前向きなプレッシャーを自分にかけました」

【プロ野球よりもオリンピックを選んだ男】
 もうひとりは、バルセロナ大会からシドニー大会まで、3大会連続でオリンピックに出場した杉浦正則。橋本高校(和歌山)時代は甲子園に出場できなかったものの、名門・同志社大学のエースとして関西学生野球リーグで通算23勝。1990年秋の明治神宮大会では日本一に輝いた。

 大学卒業後は社会人野球の名門・日本生命に進み、チームのエースとして、そして全日本のエースとして投げ続けた。オリンピックに出場する全日本メンバーが完全にアマチュア選手(大学、社会人)で構成されていたのは1996年のアトランタ大会までだが、杉浦はプロ野球の選手が参加するようになった2000年のシドニー五輪で主将を務めた。

 オリンピックかプロ野球か――。第一線で活躍している間、ずっとその去就が注目されたピッチャーだった。それでも「プロでも確実にふたケタは勝てる」と評価された男は、一度もプロのマウンドに立つことなくユニフォームを脱いだ。"ミスターアマチュア野球"と言われたままで。

「どうしてプロ野球に行かなかったんですか?」杉浦は、何回この質問を受けただろうか。

「タイミングとか縁とか、そういうものもあってプロに行かなかった。僕がプロ野球に行かなかったのは、オリンピックにはアマチュア選手しか出られなかったというのが大きな理由です。もともと『プロ野球選手がオリンピックに行ける』というルールだったなら、また違った選択をした可能性もあります」

 プロアマ合同チームで臨んだシドニー五輪では、準決勝でキューバに0-3で敗れ、3位決定戦でも韓国に1-3で競り負けた。杉浦は自身最後のオリンピックでメダルを獲得することができなかった。

 もし杉浦のプロ入りに適したタイミングがあったとするならば、1992年のバルセロナ五輪を終えたあとの、24歳の時だったかしれない。

「その時はヒジを痛めていて、痛み止めを打ちながら投げていました。結果は銅メダルに終わったので、『金メダルを獲りたい』と思い、アトランタにかけました」

【プロ野球を選ばなかった人生、それぞれの結論】
 あの決断に後悔はないのか?――ふたりに同じ質問をぶつけた。

 今も三井不動産に勤務する志村は言う。「自分が不動産の仕事に合っていたのかどうか、他の仕事をしたことがないので比較はできません。でも、向いてないと思ったことは一度もありません。野球を続けなかったことを後悔したこともありません」

 オリンピック3大会に出場して、銀メダルと銅メダルを獲得した杉浦は、20000年シーズンを最後に32歳で現役を引退。その後は日本生命で投手コーチ、監督を務めるなどしてチームを支え、現在は日本生命の営業部長を務めている。

「最後と決めたオリンピックが終わって、自分の中に目標がなくなってしまいました。後悔は誰にもあるものだと思いますが、僕は後悔のない決断をさせてもらいました」

 彼らがプレーした1980年代、1990年代とは、プロとアマチュアの関係性は大きく変わった。プロ経験者が高校や大学、社会人の指導者になることも増えた。だが、志村が言ったように、「覚悟のない選手が足を踏み入れちゃいけない世界」であることに変わりはない。

長文の為一部削除 2020.10.26 Sportiva https://sportiva.shueisha.co.jp/clm/baseball/npb/2020/10/26/___split_198/

3: 名無しさん@恐縮です 2020/10/26(月) 06:36:20.35 VA4hEqg80.net
当時のプロは安かったからな

18: 名無しさん@恐縮です 2020/10/26(月) 06:50:07.66 rnpjCdTh0.net
20000年シーズンか
あの年はすごかったな

30: 名無しさん@恐縮です 2020/10/26(月) 07:08:36.32 LdCSfjqx0.net
いろいろな業種の中から三井不動産という会社を選んだのは、不動産の仕事と、三井不動産が好きだったから。

こんな幼稚園児みたいな理由で天下の三井に入れるのか
体育会ぱねえ

72: 名無しさん@恐縮です 2020/10/26(月) 07:50:46.98 yg8Q0BQz0.net
バブルの絶頂じゃないか志村って人の時は

102: 名無しさん@恐縮です 2020/10/26(月) 09:05:18.57 POui/FF50.net
プロ野球選手という職業は将来消えてなくなる職だからね
懸命な判断だろ

103: 名無しさん@恐縮です 2020/10/26(月) 09:07:12.42 lNOesxRO0.net
志村がプロ拒否したのは妥当
タイプ的にはホークスの和田の下位互換で球速それほどなかったし
巨人みたいな慶應閥のある球団に行けば引退後も残れた可能性もあるが

129: 名無しさん@恐縮です 2020/10/26(月) 10:14:02.44 5bFibw2w0.net
就職してどうしても自分に会わなくて辞めちゃうかも知れないじゃんね。

140: 名無しさん@恐縮です 2020/10/26(月) 10:40:14.11 YG+riNna0.net
三井不動産の営業部長なら年収1500万以上を定年まで貰えるし正しい選択だったな

152: 名無しさん@恐縮です 2020/10/26(月) 11:42:37.88 jUo6jJsb0.net
メンタル強かったら脳筋でも営業はできるもんな

163: 名無しさん@恐縮です 2020/10/26(月) 12:44:28.96 9Dubt+Ct0.net
西武にいた佐藤友亮は中学時代に3年間学年トップ
一般入試で慶應高校入学の秀才

186: 名無しさん@恐縮です 2020/10/26(月) 14:14:48.98 zBH5ZtZp0.net
黒須とかバンビとかバンビ二世は?

引用元: http://hayabusa3.2ch.sc/test/read.cgi/mnewsplus/1603661593/

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